2011年8月13日土曜日

髪切の庭 2010.8.10

先日のタマムシにひきつづき、本日ルリボシカミキリを庭で見た。ラッキー。
いつみてもはっとするような水色と黒色の配色が美しいし、とくにひげの黒い節のところの短い毛がいいと思う。かれーはここに来て見たことがあるらしいがnoomの記憶は新潟時代に出会ったきりの虫。
先日はハチそっくり模様のトラカミキリがうろうろしており,ここまで他人に似せる事のできるその擬態技に関心していた。でも、飛ぶときはカミキリ独特のちょっとなさけない「ばんざーいポーズ」になるのがかわいい。
そういえば今年はキボシカミキリが、庭に大量に出現してた。お隣から伸びるイチジクの枝、それからクワの葉の上で、長いひげを華麗にのばして、 単独であるいは交尾してじっとしていた。キボシは小学校の通学路の思い出につながっている。ちょうど家から学校の半分、お米屋さんと小さな神社との中間あ たりの垣根のイチジクの木に,毎年見つけることができた。noomのこども時代の代表的カミキリムシと言える。
なぜいろんな虫たちが現れるかと言えば、それは今年こそはシーズン中になくならないようにと、今から車庫にためているあちこちから集めた薪た ちのおかげ。これがいわゆる「いい薪」ではないことが、最終的には、noomを喜ばせていることになる。薪割りをすれば木の皮にはシロアリもいる、ムカデ もいる。そのほか様々な幼虫たちが潜んでいるが、その正体は何だろう?我が家の薪は様々なおどろき入りのお楽しみボックスだ。

ちいさなさんぽみち 2010.8.8

 本日晴れ予報がなぜかくもりにつき家族でおでかけの行き先は急遽変更、一路精進が滝へとむかう。さすがにハイシーズン、こんな山奥なのに結構子連れが来 ていて驚くが、次々追い抜かれていくのは、やはりうちが最年少組だから。そのリホチ、弱冠1歳半にして歩く歩く。割と整備されたほぼ平坦な山道とはいえゴ ロゴロと石もあればゴツゴツした木の根もある。そんな道をとことこすすんでゆく。そして、転ぶ。泣きもせずに起き上がり、小さな手についた湿った枯れ葉を 少し見て、また歩き出す。また転ぶ。そのくりかえし。手の痛さよりも歩くことの方が楽しいんだね。目につくいろんなものが面白くて、noomたちに見せて くれる。急な階段も覚えたばかりの「よいしょ」「よいしょ」という小さなかけ声をかけながら、途中でくじけること無く、自分で登りきっていた。我が子なが らスゲェ。
tooはといえば、道で拾った銃を片手に、もう一つの手には家から持って来た紙皿(意味不明)を持ち、家族の先頭をどんどんすすんでいく。こ こに最初にtooと来た時には、noomが終始おぶっていたのを思い出すと感慨深い。少しひんやりとした湿った森の中はキノコたちが次々顔を出しており、 今回キノコ目を身につけた彼に次々に発見され、ときに踏みつぶされている。川岸にたどり着いたらさっそくすずめのように砂浴びを始めてた。最後には風邪気 味だというのに裸ん坊になってる。我が子ながらアホだ。
滝見台のはるか手前、第一の滝までで引き返した今回のミニ散歩、子供たちの歩く様子がとても楽しく、満足した半日となった。
帰りの道すがらのこと。行きに通りすがった、普段なら気にも止めないような小さな小さな風景たちを、我が子と歩いたおかげでくっきりと覚えていることに驚く。行きに出会ったキノコとすれ違ったとき、カレーといっしょにtooに話しかける。
「キノコをいじめたらだめなんだよ」
「月夜になるとねえ、キノコはぴょんぴょん動くんだよ」
「!」
「こんど、よるにみんなでキノコみにこようね」
「うん,みんなできっと来よう」
森の時間はうれしい。

たまむしにためいき。 2010.8.2

 ムシムシした午前、出勤前に庭の手入をしたところ、。我が家の車庫の前でなにか羽音を立てて飛んでいる虫。きらりと飛ぶその色かたちは、タマムシ!
日差しにメタリックグリーンの輝きがまぶしい。吸い寄せられるように後を追い、つかまえてみた。改めてしげしげ見ても全身これでもかというくらい 派手。だけど、夏の日差しと緑の中では結構溶け込んで見えるもんだなあ。そのあとしばらく写真撮影したが、なかなか落ち着かなくて、すぐに飛んでしまうの には苦労した。
今でも覚えている初めての玉虫との出逢いは小学生のとある夏のこと。今となっては面影もすっかりないが、当時はまだ実家の近所は家より田んぼ が多くひろがっていて、1.5キロぐらい先の小学校に通う道の大半には緑があった。その中でもまだ未舗装で土ぼこりが多くてあまり好きでなかった広い道路 脇を歩くのは、汗がだらだら出る真昼の下校時には一番苦痛なポイントだった。その道路脇に横に置いてあった枯木の上に見つけたのが玉虫。つかまえたあとど うしたという記憶はすっかり飛んでいるが、その深い色は子供心にも魅力的で、ミズカマキリとともに随分長いこと標本箱にあった事を覚えている。玉虫を見た のはその一度きりだったし、涼しい地方に暮らす今、もう会えないと思っていた。
noom不在中、tooとリホチは初タマに大興奮だったという。tooは「宝石みたいできれいだねえ」と触って遊んだり、昆虫図鑑を開いてみ たり。リホチはこわごわ、でも興味津々で見ようと近づいたところ、玉虫がぶーんと飛んで手に止まり…ぎゃーと絶叫したと言う。確かに大きさといい羽音とい い色が黒ければまさにコックローチライク。強烈体験で虫嫌いにならないといいけど。その後、子供たちはひととき玉虫と遊んだ後、空に飛ばしてバイバイした らしい。彼らにとっても夏の記憶の色になったらいいな。
玉虫色は、今も30年前もnoomにとっては緑や空の色の濃さやギラギラ太陽やキラキラ水しぶき〜「夏の輝き」を濃縮した色。なつかしさもうれしいが、久しぶりの再会が自分の家だというのもなんだかこそばゆい。誕生日直前のうれしい出来事だった。

森のダースベイダー 2010.7.28

昨日はtooの誕生日翌日。記念に彼が1歳の頃から何かにつけて家族で登っている平久保山に登った。ここは遊歩道を徒歩15分で山頂にたどり着けるのと、 頂上から我が家のあたりがよく見えるのがいいところ。我が家のお気に入りスポットの一つだが、その登山口には池がある。そこで、異臭と羽音を聞いた。辺り を見回してみると池のほとりの土手に小さなモグラの死骸があり、そこに蠅やシデムシがたかっていた。この地域でよく見かけるのはヒラタシデムシなのだが、 そこにいたのは少し大型のクロシデムシだった。2匹が交尾しながら死骸にまとわりついている。周りにたかる蠅と違い、シデムシはぐいぐいあちこちからモグ ラにもぐり込むようにしたりするので、死体はひっくり返され、少しづつ動いてゆく。tooも思わぬ事件現場に興味は持つものの「くさいにおいがする」とあ まり長くは近寄りたくない様子。
このクロシデムシ、黒光りしたボディに大きな目もと、見かける度に顔がダースベイダー似だなあ思ってしまう。特につかまえた時等は頭を腹方向 に下げる(首をうつむかせる)ので、胸部があの末広がりのヘルメットのように見えてよけいベイダー感が高まりカッコイイ。毎度ながら、見つける度に思わず ス〜ハ〜ス〜ハ〜と「あの呼吸音」のまねが口に出てくる自分がいる。しかし、触らない方が身のため。シデムシは刺激されると臭いにおいの茶色い汁を出す が、それがなんともいえない異臭、毎年夏の終わりに嗅ぐことになるカブトムシの死骸臭をさらにさらに強烈にした感じというと近いだろうか。
このシデムシ、おぼろな記憶ながら小学生の頃、夏のキャンプ場のトイレ近くで幼虫に出会ったのが最初だと思う。ダンゴムシのような三葉虫のよ うな不思議な形。ナウシカにでてくる王蟲に似た体型でとても昆虫っぽくない。そのころの手元の図鑑には幼虫まではのっていなかったので、その時にはなにか 得体の知れない新種の虫だと思ったのを今でも覚えている。
1時間ほどで戻って来たので見てみたら、あらら、さっきの場所からモグラも虫たちもどこにもいなくなっていた。シデムシが土に埋めた?ほかのいきものに移動された?すでにあの腐臭もしなくなっていた。

平家物語 2010.7.25

葉っぱの上にジョウカイボンが止まってる。森のどこにでも、やたら目につくジョウカイボン。ジョウカイボン、はじめて聞いた時からなんてヘンな名前。今回ちょっと調べてみた。
これまでその外見から、てっきりカミキリムシの親戚だと思っていたが、ちがうらしい。本当はホタルに近いなかまだそうな。なるほど、それなら植物食でなく、他の虫も食べるというのも納得。
ジョウカイボンとはもともと浄海坊と書くらしい。なぜにそんな名前がついたかと言うと、浄海坊とは平清盛の別名。清盛は晩年原因不明の高熱に苦 しんだ→やけどのような症状→カミキリモドキの毒はただれ症状をおこすーカミキリモドキとの混同ー 結果清盛=ジョウカイボンがつながったらしい。勘違い が定着したという話もおもしろそうだが、多分昔はジョウカイボンとカミキリモドキは似ている形から同じ仲間と認識されていたのではないだろうか。だから ジョウカイボンの仲間には体内に毒があってもおかしくないと考えた。灯火に集まる性質のカミキリモドキの毒に昔から気づき、悩まされていたというのが、名 前から伝わってくるというのもおもしろい。さらにいえばジョウカイボンとホタルが近い仲間とすると、あの「ホタルには毒がある」という考えもあながち嘘で はないのでは、という気がしてくる。源平合戦に例えられるホタルの光、そういえばその光の不思議さは霊魂の生まれ変わりではと言う考え方も昔はあったよう だ。
ともあれ、ジョウカイボン、そして平家蛍、(そして落ち武者の顔が背中にあるという平家蟹も)、平家にまつわる名前を持ついきものは、なんだ か常に密かに怨念というか、負のイメージを負わされているなあと感じる。逆に「源氏名」を持ついきものはホタル以外にもいるんだろうか。想像はふくらむ。

ミミズク 2010.7.23

 夜ダイニングでパソコンを打っていると虫の羽音がしていた。なんだろうなあと心の隅にとめていたら偶然目の前に止まったのは初めて見た不思議な虫。色は 褐色で地味、1センチに満たない大きさだが姿にインパクトがある。胸の部分の両側が薄い板状に張り出していてカエルのような印象だ。図鑑を取り出して来て 調べると、ミミズクと言う昆虫だとわかった。ヨコバイ近い仲間ということだが、確かに歩き方も横移動中心。顔もセミ顔に近い。この「小さなセミのような」 グループは特異な姿をした個性的ものが多いらしいがそれは何故なんだろう。
同姓同名に鳥のミミズクがいるが、言われてみれば姿の印象はあの鳥に近い。ズク=フクロウだからこの場合は鳥の方が名付けは先だろう。はじめ ての対面はうれしかった。でも,フクロウの名を持つにしては、他の虫以上に結構大きな羽音で飛んでいたところが個人的には「おしい」と思った。

いまごろホタル 2010.7.19

職場の駐車場脇のしげみで虫を探していたら、ビックリ。葉っぱの裏に静かに止まっているゲンジボタルの雌を見つけた。同じ日にすぐ近くで昼行性のオバボタ ルもみかけた。ここは標高1000m近くなのでまだ成虫を見られるのかなあとは思いつつ、あたりに水辺も無いこの場所にどうやってここまでたどり着いたの か不思議に思った。
ホタルは光るということで目立つわりには、意外と知られていない部分が多い。というか夜光るという特異性がいろんな謎やイマジネーションを生み出し、調べるほど面白い発見がある。
そもそも「なんで光るんだろう」というこどもの問いに、質問が根源的すぎて答えられない。源氏ボタルは日本の東西で光り方にハッキリとした違いがあったり、平家ボタルは、車のハザードランプにどうしようもなく吸い寄せられてしまう。
なぜだか源平の合戦に例えられるホタルの光だが、星が垂れるから「星垂る」とも、火が垂れるようだから「火垂る」ともされる語源、(ホタル講習会 で覚えた知識だが)ホタルカラーの虫が多いのは、もしかしたら体内にある種の生物毒を持っているからでは、という謎もある。指先に満たないような小さな虫 にも解けない謎がたくさん隠れているという自然の面白さ。それを誰にでも興味を持たせてくれる力をホタルは持っている。
いつも観察しているのは同じ町内だが標高750m前後のホタル。今年は春が寒かったせいか出現タイミングが遅れ、ようやく6月24日で20匹 程度、28日前後で50匹程度、一度少なくなって7月4日は70匹程度になった。5年前にこの場所を見つけたときよりなんとなしに、年々数を減らしている ような気がする。気のせいだといいけれど。
それでも、今年は仕事だけでなく家族と2回ホタルのいる夜を味わうことができた。noomにとってホタルは新潟時代から「はじまりの虫」なので思い入れも深い。できれば毎年ホタルの光の中、家族そろってすごす時間を持ちたい。

レインキャッチャー 2010.7.12

 先日の川遊びで葉の撥水の美しさに改めて気づいてから、雨の日は葉っぱから目が離せない。いろんな葉っぱを見て、裏側にして水をかけてみたが、やはりは じくものとはじかないもの、いろいろな葉っぱがある。表面からして水玉をきれいに作るのはマメのなかまに多いのかな。クズの他にもハギがきれいだった。ス スキやイネのなかまも美しい。まあまあなのがイチョウ。逆にカエデ等はすぐ濡れてしまう。常緑樹の葉は意外にはじきが悪い。

葉っぱを裏返して雨の中に立つ。やることはただそれだけ。どこにでもある、程よい大きさのクズ等がオススメ。しばらくすると小さな雨粒,大きな 雨粒が葉っぱをたたく。じっと見ていても奇麗だけど、ぽつぽつと降る雨のその感触を手のひらで楽しめるのがおもしろい。思わず、雫がしたたるところがない かさがしてしまう。梅雨、降り出した雨は心を曇らせることが多いけれど、雨もまた天の恵みと感じさせてくれるこんな静かなあそび、ぜひお試しあれ。

水玉の葉 2010.7.4

 午前に家族でプチ川遊び。昨日降った雨ぐらいでは、ここ尾白川は濁らない。
ちゃぷちゃぷしながら、川岸にあったタケニグサとクズの葉をちぎってあそぶ。葉に水しぶきをかけるところころころころ水玉が転がる様子は、きれ いでおもしろく飽きない。リホチも指で水玉を動かし集めて、つつーっと流す様子には興味津々。葉っぱにたまった水を「よっ」と上に投げると、丸まった水が とびあがる。空は青空と立ち上る雲がコントラストを鮮やかにし、よく見れば銀の粒のさらにその中にそれが映り込んでいる。涼しげな夏の輝き。楽しいなあ。
水玉も素敵だが水の中に入れた時の葉裏の銀メッキのような光沢がnoomのおきにいり。しかしタケニグサは普段雨の日に見ると見事な水玉を作 るのだが、その普段見ている葉の表側、しかし水の中に入れても銀色に見えない。撥水力が裏より格段に弱いみたいなのだった。これは今日の個人的意外発見 だった。
植物の表面、特にその葉裏に毛が多い場合が多いのは何故なんだろう。基本雨では直接濡れないんだから、雨対策としては過剰防衛過ぎないか?し かし一度濡れたらことは厄介だ。水はシート状のもの同士の間にある時、接着剤みたいな振る舞いをするから、両面つるつるなら葉っぱ同士がぺったりくっつく ということもありうる。さらにミクロで見れば、もし濡れてしまえば水が気孔を塞いでしまう。これはつらい。呼吸ができないのだから。
…本当の理由はどうであれ、もの言わぬ植物たちの工夫は巧みで美しく、見るたび知るたび感嘆するしかない。

不如帰と閑古鳥 2010.7.3

 今住んでいるのは高原地帯なので、毎年6月にもなると、森からカッコウやホトトギスの鳴き声が聞こえてくる。
昨日の夕方仕事帰り。駐車場に向かい歩いている間、ホトトギスの声が響いていた。いつもは定番聞きなし「特許許可局」としか聞こえてこないんだ けど、そのときはそうじゃなくてもいいよなと思ったらなんだか別の声に聞こえてきた。「チョットマッテテヨ」「ホットイテクレヨ」、そう聞こえだすと、な んだか不如帰劇場がはじまりそうでちょっぴり楽しくなって来た。
知らなかったがホトトギスとパソコンに入力すると実にいろいろ変換候補が出てくる。
不如帰〜帰ることができない。中国の伝説から来た名称らしい
杜鵑〜これも中国由来。森の鳴く鳥そのままだなあ
子規〜血を吐くように鳴くとされるホトトギスから、吐血する自分と重ねた名前が正岡子規だったのね
時鳥〜初夏、季節の変化を告げる鳥
このほかにもいろいろあるらしい。

一方、先日、ふと閑古鳥ってどんな鳥だろうと改めて思った。なんとなく、カーカーと数羽のカラスがため息をつきながら鳴きながら横切っていくビ ジュアルイメージがnoomにはあった。子供の頃見たタイムボカンシリーズ?や漫画などの影響かもしれない。でもよく考えればそんなことも無いだろうと思 い直して調べてみたら、予想通り閑古鳥とはカッコウのことだった。確かに「静かな湖畔の森の影から」鳴いているわけで、カッコウの声が聞こえる状況には 「賑やかな場所」という印象は無い。けれど「閑散」や「うら寂しい」というよりは、どちらかといえば「静謐」「センチメンタル」とかそういうプラスイメー ジがあったので、ちょっとそのギャップに戸惑っている。閑古鳥鳴く球場(スタンド)には風がチリを巻き上げてピュウと吹いているが、カッコウ鳴く球場は、 緑豊かで涼しく爽やかな感じがする。
話の脱線がすすんで一旦仕切り直す、そのときの一瞬の静寂の間にも、心の中ではきっとカッコーの声が響きわたる。閑話休題。
ホトトギスの鳴き声は昔から妙に人の心を惹きつけるものがあるらしく、万葉集では鳥の中で最多登場数を誇ると言う。枕草子ではホトトギスの初音 を待つ為に徹夜する様子が描かれ、「目に青葉山ほととぎす初鰹」などなど多くの歌人にも歌われてきた。名前も歌もそれだけ人との関わりのあった歴史を物 語っている。

しらが採り 2010.6.23

本日休日につき、かねてからの興味はあっても勇気がなかった「てぐす取り」に挑戦してみた。
原料の白髪太郎はまだまだ無尽蔵に這い回っている。えいっとはさみで切ると中身がでろんとでてくる。うわっスプラッター。で、ラーメンのような細長い器官を取り出し、酢に漬けて引っ張るとしゅるしゅるのびてテグスの出来上がり、なんだけど。
やってみるといろんなことに気づくもの。勇気を出して切るとみるみる体の内部が「でろでろっ」と出てしぼんでしまう。水を入れた風船という感じ で液が出てしまうとあとはほぼ外側の皮しか残らない状況に、「いきものは袋なんだ」ということを改めて実感させられた。そして切った時に黒い体液が出てく るようなものはまだ未熟なのかラーメン器官が見当たらない。黄緑色の場合だと入っている。一見同じに見えるイモムシなのにこの変化ぶりが隠されているのは さなぎから蝶が出てくる時とおなじような昆虫独特の驚きがある。つまり、さなぎになる直前の「下痢便」状排泄が終ったものがテグス用に使えるわけだ。また ラーメン器官も黄色の部分は未熟部分なのか、テグスがうまく取り出しにくい。強く引っ張りすぎると切れてしまうし、ちぎれるとよれてしまう。それでも10 センチ足らずの器官から1mくらいのテグスを取り出すことができた。
乾くとある程度の太さがあるものは確かに透明で丈夫だけど、これで釣をするにはかなり糸同士を結ばねばならない。手間がかかるものなのだなあ という実感と、代用品として発明されたナイロンの便利さを痛感した。細く、透き通った白色の糸はまさに白髪のようでもある。毛むくじゃらのイモムシだから ではなく白髪のような糸を取り出せるから白髪太郎と名付けられたのかもしれない。
ところで先日、近所のおばあちゃんが白髪太郎のことを「しなんたれ」と呼んでいたのに興味を持って、ネットで調べてみると「しらがたろう」の 他に「しなんたろう」と呼ばれていることもあるようで漢字を当てれば「信濃太郎」らしい。「坂東太郎」といえば、関東の大河利根川だが、「信濃太郎」は6 月信濃のほうに湧き出る夏の雲、つまり入道雲の呼び名でもあった。同じ季節に、急速に増えて押し寄せて、人を困惑させるという共通点があるなあ。
けれど、なぜ信濃なのか。「しなんたれ」には少し「信濃のもの」と蔑んでいるようなニュアンスが感じられなくもない。信濃といえば蚕やザザム シを食べる昆虫食文化がまだまだ一般レベルまで名残をとどめている地域、虫まで食べる信濃人のがつがつしたイメージとクスサンの暴食ぶりを重ねあわせてい るのだろうか。さらに妄想をたくましくすれば、神話の時代以前、在来神であるスクナヒコノミコトが天孫族に追われて最後に逃げ込んだ土地がこの信濃の諏訪 とされている(スクナヒコノミコトは諏訪神社のご神体)。つまりシナノタロウとは在来の神が零落した姿、しかし蔑みつつも神として一目置く存在としての呼 び名なのかもしれない。
余談だが今回、パソコンに「しらが」と入力すると「白神」と出てくるのも面白いことだと思った。シラガにしてもシナノにしてもどちらにせよ神に近い。人智を越え、制御できないものを恐れ敬う心、それを人格化してなだめる気持ちがここには働いたのではないだろうか。

はじめてのお葬式 2010.6.19

 はじめて地域のお葬式に参加した。その前日の段階(通夜の日)では棺桶の上に鎌が添えられていたのが印象的だった。この地域では組のメンバーの葬儀は組 全体で取り組むのがしきたりで、しかも組活動の最重要項目に位置づけられている。今回亡くなられたのは、組のメンバーのお姉さんだったのでずっと前に地域 を出たこともあり縁故関係が薄いけど、でも組が葬儀を出すことになった。ここから組は男女に分かれ、葬式の準備をすすめる。女性は「マクラダンス」を自分 たちで作るかどうかについて話している。始めて聞く言葉、そのときは遺体の枕元に置く、ごはん等をのせるための台のことかなと思っていたが,どうやら「枕 団子」のことらしいと後で分かった。
当日の葬式準備としてお寺の敷地から竹を複数切り出して、先のほうに飾りをつける。ああ、このために寺には竹林があるのか、と妙に納得した。
まずはハナカゴ。荒く編んだ玉入れのようなカゴのふちには花かざりがついている。その中に、小銭をつつんだおひねりと色紙を入れた。続いてタツ ガシラ2体は木製の竜のお頭の後ろに1mくらいの細長い半紙を貼付けたもの。半紙にはうろこっぽい模様が書かれていた。次4本にはお経の文字がかかれた白 布をつけ、もう一本にはテンガイといい、木製の吊り部品に、半紙4枚を組み合わせて、中央部を空けて貼り、四方にこよりをつけた紙を用意し、ホウジョウサ ン(出家した人のこと)に経文を書いてもらったのちに吊りテンガイにぶら下げる。
これらは葬儀が済み、これからお墓に出発するその時に野辺送りの行列が持つものだったのだが、今回親族の人数が少ないこともあり、noomも テンガイを持たせてもらった。これは貴重な体験。出発時にはハナカゴを持つ人は竹を上下にゆする。すると編み目から色紙が舞い、おひねりが落ちるというし かけ。昔はこれが子供たちの貴重な小遣いになったようで、多分量もそれなりにたくさんまいたのだろうけど、今は後で拾うのが大変ということもあり必要最低 限しか撒かないようなのが残念。
お寺を出てすぐ脇の六地蔵にゆき、それから墓地に移動する。お墓に竹を四方から立てかけるのは土葬の時代の名残で、動物やからす等に掘り返さ れないようにするためらしい。魔除けの鎌を置く風習が残っていたり、まだまだこの地域ではおじいちゃん世代には土葬の記憶がしっかり残っている。一度線香 をあげてから、枕団子を一つづつ口にし、もう一度線香を上げるこれが「なのか」(初七日)。お寺に戻って「精進落とし」の会食をしたが、うちの組(組限定 かどうかは不明)の名物料理として「マグロと大根おろしの甘酢和え」が出た。これは始めて食べる味で美味しかった。
3月まで組長だったそのときなら、葬儀委員長を務めないといけないので内心ドキドキしていたが、今回一通り流れを見ることができて良かった。 地域はじめての葬式はまったく面識の無い人だったこともあり、なんだか不思議な気楽さがあった。ただ一つ、幼児2人つれての葬式はなにかと大変だった。

白髪まつり2010.6.23

 まつりはいつもいきなり始まる。夕方、家が白髪太郎で埋め尽くされていた。玄関、外壁、屋根、樋どこもかしこも、もそもそもそもそ虫たちが動き回ってい る。なまじ大型のいも虫だけに迫力満点。家の裏のクリの木を見れば、日曜までは確かに葉っぱがあったのに、すっかり花穂とそれに姿形が似た太郎たちだけに なっている。急速な食欲増大で食料が尽きて、移動しているようだ。まだまだ幹を伝ってどんどん降りてきている。昔見た人食いミミズが大発生するB級ホラー 映画「スワーム」の恐怖を思い出した。ひえー。
出産前、「蟲愛づるヒメギミ」の名をほしいままにしたカレーは今回引いている。ヘッドライトをつけたtooは、かれーのまねをしてか、「やべ えよ。おまえらやべえ」とつぶやきながら光をあてて大暴走を見ている。リホチも比較的平気なようだ。noomの事前教育の成果か?noomはまつりがひろ がって近所迷惑になると、殺虫剤をかける等対策されてしまうのでは、と恐れていたが、なぜか、隣のうちまではあまり出張していなかった。よかった。
「王蟲の暴走」を止めるすべは無いのだろうか。まあ、それはないのだけどささやかな抵抗?をして、今朝箱にどんどん拾い集めた。カレーから 「かっこいい」「見直した」と不謹慎な声援を浴びながら集める集めるぽいぽいぽいっ、その長いふさふさ毛は掴むのに便利だ〜ぽいぽいぽいっ。時々しっかり 引っ付いている太郎は黒いタール状の液を出す。もう蛹化の準備がはじまっているようだ。瞬く間に箱一杯に太郎を集めることができた。ずっしり重い。どうし ようこれ。でも、まだまだまつりは続いている。
生物は微妙なタイミングによって時々こんな「まつり」を起こす。どちらかというと調和の完全さが崩れた環境の時「まつり」は起こりやすいよう に思う。(今回の場合は独立樹のクリが太郎の消費量に耐えられなかったのがきっかけ。今年の気象条件もあるかもしれないし捕食者が少なくなってるのかもし れない。)人はいつもと違う自然のその様子に、畏怖を感じる。それはいきものの持つ根源的なパワー、「世界に満ちたい」欲求を目の当たりにするからでもあ るし、いつもは作物等で思いっきり人工的な「まつり」を起こし続けている人間が制御できないことだからなのかもしれない。

空の木 2010.6.16

夕食に花を飾った。白い5弁のかわいらしい花、ウツギだ。先日から庭や近所に咲きほこっているのをかれーが草取りのついでに切ったのを持ってきたので、南山焼きの花入れにみょうがの葉と一緒にさしてみたのだった。
飾ってみてあらためて気づいたのはウツギの花はとても落ちやすいこと。枝を少し降ってみれればぱらり、触ってみればがぱらり。ウツギの花の下に は、落ちた花びらが降り積もって白い雲のようだ。風にゆられて、雨にうたれて、蜂や虫が訪れるたびに、はらはらと落ちているんだろうな。その花びらは薄 く、白かった花も落ちてしばらくすれば色あせて、おからで作る卯の花の色になってしまう。そういえば、うのはなくたしの雨ってなんだか今頃の梅雨の雨のこ とだと思っていたけど、旧暦4月の別名が卯月なのは、その時期に卯の花が咲き誇るから、と考えれば名付けたのはきっと暖かい地域に住む人なんだろうな。で もこの花をとても印象的だと感じた気持ちは分かるような気がする。
調べてみると、○○ウツギというのはいろんな植物グループの総称らしい。共通点は茎が中空になっていること,だから空木。空の木って、なんだ かとってもステキな名前だ。茂みにちりばめられた白い花は一つ一つに淡い陰影があって、少し蒸し蒸ししてきたこの時期の雲の色に似ている。

白髪雨 2010.6.10

我が家の裏には大きなクリの木がある。梅雨のこのごろにはいつも雨が降っている。いや雨が降っているような音がする。パラパラぱらぱら…。耳をすませばさらにちいさなささやくような音。さりさりさりさりさり…。
この雨音の正体は白髪(しらが)太郎たちのしわざ。先日までは黒髪小僧だったのに、今日見たら老けたのか大部分が白髪になっていた。老けたと 言っても一皮むけただけ。そう、彼らは葉っぱを食べている毛虫。noomの大好きなクスサンの幼虫のことなのだ。だれがつけたか白髪太郎という絶妙なニッ クネーム。この子たちの昔からのヒトとのかかわりや存在感の大きさが名前からも伝わってくる。余談だがこの子は三兄弟の長男で、ほかにも黒髪次郎と茶パツ 三郎がいて、彼らは今の時期になぜかよくわからないが、道路を横切っている姿をよく見かける。もっとも次郎と三郎はnoomが太郎にインスパイアされて個 人的にそう呼んでいるだけだが。
まず色がきれい。お仲間のオオミズアオに似た、なんともいえない涼しげな薄荷緑の体から、さらにそれより白みがかった長い毛が全身に生えている。体の横の黒と黄色が作るラインには明るい初夏の青空を写したかのような水色の水玉模様が並ぶ。
さらにでかくてインパクトがある。さりさりと音を立てて葉を食べながら、これからさらに食べ続け10センチ近い大きさになると、枝先からときど きボトッと落ちてくることもあるが、迫力がある。ちょっと最初は勇気がいるが、毒がある訳でないから触っても大丈夫。チクッとたまにするのは時折混じる剛 毛のせい。そしてこの重量感。なによりもうごくときのくすぐったさ。太郎を見つけるとよくこどもにさわらせるが、最初緊張してびくびくしていたのに、最後 にはかわいい〜と毛をなでる、その変化の様子〜まさに「自然」とのふれあい〜の一部始終を見るのは、いつもとてもとても楽しい。
ぱらぱらと雨のように音を立てて落ちてくるのは太郎たちの黒緑色のフン。雨というよりは霰かしら。正露丸くらいの小ささなのにどれもただ丸い だけでなくスリット模様付きなのも芸が細かい。雨の日も,そして晴れている日も、屋根の上に、塀の上に、日に日に降りしきる虫たちの長雨…。
このあと「梅雨明け」したら太郎たちは近所のあちこちに民族大移動してヒトを驚かせ、長い静かな「夏休み」のはじまり。「夏の自由工作」の風 通しのいい手作り隠れ家の中で、大人になるための勉強に集中。そして夏の終わりには小麦色した日焼け少年?美人?に変身して、またまたヒトを驚愕させてく れます。ただし虫慣れしてない人たちには「納涼お化け体験」だけど。
noomがなぜ白髪太郎に強く惹かれるのかといえば、「常にヒトに驚きを与え続ける存在」としての「自然」、そのエッセンスが彼らに凝縮されているように感じるからなんだろうな。

10分毎林道記 2010.6.3

休日に家族で白州町の奥、まだ行ったことの無い滝を目指してみた。集落から随分山の奥に入り、工事現場との分岐が車の終点。そこからゆっくりと歩き出す。息子は拾った棒を持ち、すっかり「戦闘モード」になって見えない「テキ」と戦っている。
歩き始めて10分もしないうちに林道脇の小さな流れの向こう岸に黒いいきものの影。「くまがいる!」熊はすぐに山の中に消えてしまった。小熊ら しかった→親がいるかも、ということもあり、それからやたらと親2人が歌をうたい出すようになったのは言うまでもない。もちろんBGMの1曲目は「森のく まさん」だ。林道をすすむと10分もしないうちに今度は若い杉の植林地を通り過ぎた時、「がさがさっ」「どきっ」今度はシカだった。数頭が餌を食べていた らしい。杉のまわりに被害防止用のアミが巻いてあったので、これは予測の範囲。
かなりな急斜面に作られた未舗装林道、落ちたらたいへんだねと言っているのに息子は端に近づく。歩いていると10分もしないうちに、先頭を歩 くかれーが「うわっ」と大きな声を上げた。「どきどきっ」今度はヘビだった。そのシマヘビはしゅるしゅると瞬く間に道の脇に消えてしまった。さらにすす む。10分もしないうちに、道のすぐ前をはばたき横切る小さな影。「おっ」よく見えなかったけどキジかな?ひな鳥たちが飛ぶ練習をしていたらしい。
もう何が出てきても驚かないぞと思いつつ、滝の気配は全然無く、時間も昼が近づいてきたので橋にたどり着いたのを契機に引き返すことにした。 今度は娘もしばらく歩かせてみた。なにげなく歩いてる時、娘ははなぜかいつも手を後ろに組んで歩く。かわいい。母の仕草をまねしているらしい。10分もし ないうちに、「気をつけて!まむし」今度もへびだ。一見マムシっぽいけど若いヤマカガシ。長い体を悠然とくねらせる。わーいという感じでさわりにいきたい 娘を引き止める親。
しばらくして10分もしないうちに、「なにか道を横切ったよ!?」小さなもの。ねずみ???と思いつつ隠れるような穴も無く近くに2ひきい た、しっぽの青色が鮮やかなトカゲだったのでは、と推測。娘は肩車でうとうとしはじめた。息子はおやつおやつとうるさい。最初に熊を見た場所をどきどきし ながら通り過ぎたが、さすがに今度は出会えなかった。ほっとしつつ残念。
前に住んでいた新潟を思い出すような、なんて濃い自然。滝にはたどり着けなかったけれど、こんな、おもしろくてちっとも先に進めない場所を歩くのが、やはり好きだなあ。

ニセアカシアノート 2010.6.4

 近頃河原を中心にニセアカシアの白い花が盛んに咲いている。ニセとついているけれど、蜂蜜の蜜源も、歌等に取り上げられるのも実はニセアカシア。本当のアカシアよりもずっとメジャーな植物だ。
ニセアカシアの最初の思い出といえば、はじめて植物に興味を持った大学生の頃、本をもとに最初に食べてみた植物の一つがこの花だった。確か天ぷ らと三杯酢で食べてみたような。調理もまだ始めてと言っていい頃のことだったので、完成品の味はたいしたことなかったけれど、美味しさよりはその香りと、 「これなら食べ出があるなあ」と思った事だけは記憶している。
さらに自分の職場もニセアカシアだ。壁一面にこの丸太が並べてある洒落たデザインなのだが、時々年配の方から「この薪は販売していないんですか」と聞かれて苦笑することになる。この丸太をよく見れば年輪の幅が太く、成長が早い木だということが分かる。
もう一つ、昨年伊那に川についての研修にいった時、自然解説の一環でニセアカシアの聞いた。ニセアカシアは痩せ地でも成長が早いために、一昔前 は河川敷の緑化植物として好んで植えられたが、最近は伐採しているらしい。もともと根張りが浅い上に大きく育つので、洪水時には木そのものが流れてしまい それが還って危険となるためだ。それと比較すると日本の昔からの風景でもある柳の場合、根がしっかりと張るだけでなく枝も増水時の流れを緩めながら受け流 してくれるという、という話だった。中でも特に「様々な動物たちが食べにくるため、刺をはやしているし、葉っぱを引っ張るとすぐに枝ごと折れてしまう性質 がある。それは腰が強いとどんどんたぐり寄せられてしまうから。」という解説が印象に残り、葉も美味しいんだと思っていたが、今回調べたところ花は食用だ けど葉は有毒らしい。気をつけよう。
そして、この花の咲くところ、山が近ければ、猿がやってくる。この時期の猿にとっての旬の味なんだろうな、と同じ花を食べた身には実感でき る。ここ八ケ岳山麓では釜無川の七里岩より上にはなかなか猿を見ることがないのだけれど、ちょうどあの辺りでニセアカシアの林が途切れることになるのもそ の理由の一つかもしれない。家の近くのループ橋付近は猿たちにとってはニセアカシアが多く,日当りもよく、甘い初夏の味をのんびりたらふく食べられる最高 の場所なんだろうな、と最近車で通る度に思っている。

とてねずみ、うとねずみ 2010.5.29

本日午後出勤。kuraさん家に遊びに寄る。標高が高い分ひんやりとした林の中の家にはステキなウッドデッキがある。そこでのこと。
「今ネズミがいた!」という、かれーの声にほんとかなあと、みんなの目がそちらにむかう。あれ、ほんとだ。なにか動いてる。
小さな小さなねずみがデッキのすぐ脇の下草の中を歩いている。しっぽの長さと全体の雰囲気や色からしてヒメネズミのこどもと推測。
しかも、こっちにもネズミが歩いてる!?2匹の子ねずみたち、
まだちょっと不器用さの残るその歩き方はとたとたとしていて、わが娘のおしりの動きに少し似ていた。
それにしても、2mと離れていないのに、なんだろうこのあまりの無防備さは。エンカウンタースペースの驚きどころじゃない。1m。こどもたちが 無邪気に近づいても平気。50㎝。ゆっくりと一歩近づきしゃがんでも、特に逃げない。5㎝。大丈夫なのかキミたちは?餌を食べるかなあとピーナツバターを 差し出してみたらさすがに食べる訳ではないが、逃げない。0㎝。ついついさわってしまう。ついには手づかみしてしまう。手づかみできるところがオドロキ。 野生って、野生って・・・。子ねずみは本当に小さく軽くてかわいくて、手に乗せればこどもたちもおとなも頬をゆるませる。

こんな楽しい時間の最中に、あああ、noomだけは出社時間。悲しい。

そのあとも、子ねずみはうとうと半分いねむり寝ていたらしく、しっかり激写されていたらしい。人もネズミも、いずこも子供というのはかわらないということなのか?

ちいさな視点 2010.5.27

 娘をポリオの接種につれていったその帰り。娘を車からおろしたら、じっとしゃがみこんでいる。何をしているのかと思えば、アカツメクサの花をのぞきこん でいる。どうしたの、とそっとしゃがんでみるとアカツメクサの花の上にせわしなく2匹のアリが動いていた。指を指して、声を上げ、さらに何かをコチラに伝 えたい娘。
なんだろう?じっとみている娘を見る。こどもの目線になるということで、しゃがんだりするのはよくすることだけど、実は彼女ぐらいの目線は頭 一つ分、もっと低いんだなとか、アカツメクサの花って花を中心に左右対称で3つづつの葉がついていて、なんだかそれが1セットのようだだな、とかいろいろ 考えつつ、話しかけもせず、ただ一緒に見ていた。
カメラを取りにいきたかった衝動を押さえて、いまこの時を味わったご褒美は、娘から差し出されたプチッとちぎったアカツメクサの花。父ちゃん、うれしかったよ。

白いカエル 2010.5.22

 先日、オタマジャクシが元気にたくさん泳いでいる公園の池のまわりを歩いていた時のこと。。ふと見てみると水中に白い固まりが浮かんでいて、オタマジャ クシがまわりに集まっている。よく見たらそれは親と思われるヒキガエルだった。原型のままで、まわりの皮がすっかりかじられて白っぽくなって水底に漂って いる。弱ったいきものは親でも食べられる、まさに弱肉強食の世界をかいま見たわけだが、一緒にそれを見た我が子たちは特に何も言わなかったけれど、何を感 じただろうか。悲しいとかそういう気持ちを持つことももちろん大事だけど、それを超えた理解も必要だろう。
最近、食事の挨拶時に「あなたの命をいただきます」と言うのが流行っているらしい。それ自体は決して悪い言葉でも行動でもないのだけれど、何 かが引っかかる。「あなたの」と食物を妙に擬人化しているところかなあ。何か足りないような気がする。「言葉の重み」かなあ。ちょっと不遜な気がするのは 気のせいだろうか。(これが流行るきっかけになった、「給食費を払っているんだから頂きますなんて言わなくていい」という話は、トホホです。)
これ、多分教育の場等で流行のように取り入れられていくのだろうけど、トレイに並べられた切り身の魚や、世界中から集められたスーパーの食 材、そしてコンビニの弁当を前にして発するその言葉に、どれほどの実感が含まれ得るかと言えば、本人が過程を知らない限りはなかなか無理だろう。そして 言ったからには,食べず嫌いなんて失礼だし、食べ残しなんて論外。と思うのは極論だろうか。 ちなみに「ご馳走さまでした」は、食べ物が口に届くまでのす べての関わりと手間と苦労をねぎらう言葉。いただきますと二つセットで、実感を持ちながら毎日言いたい美しい日本語だと思う。
白いカエルはまさに身を持って「私の命」をこどもたちに命を分け与えていた。直接的には食べるって生きるってそういうことだ。それをこどもた ちは今感謝してはいないだろう。それは悲しいことでも無い。でも、親である自分は、オタマジャクシのかわりに親ガエルには声をかけてあげたい、「ごちそう さまでした」と。

葉書の木 2010.5.19

週末は栃木の友人宅にでかけてきました。
その家は大きな古民家で、庭には分厚い大きな葉を茂らせた大きな木が立っている。タラヨウ。寒冷な山梨では見かけない木だけど字のかける木として有名らしい。
葉裏に棒で名前を書けばみるみるなぞった場所が、黒くなってゆく。ドクダミの葉っぱなども傷を付けると色が濃くなるけど、「黒くなる」というのは単純に面白く、小学校時代の下校時に通学路で販売していた怪しい魔法道具たちに惹かれた時の気持ちを思い出させた。
パンチで穴をあけてひもを通せば葉っぱのなふだのできあがり。そのうち破れるかなと思いきや一日遊んでもそのままだったほど丈夫。
家に帰り、神社などにもよく見かけるのは「あぶると黒く模様が浮き、それを用いて占いに使用したから」と書かれているものもあり、早速試してみたがうまく模様が出ない。取りたてじゃないと難しいのかな。むしろ持っている指にまで熱が伝わってくる、その厚みに驚いた。
別名葉書の木として郵便局の前に植えられたりすることも多く、切手を貼れば本物の葉書としても使えるらしい。いろんなアソビができそうなタラヨウ。身近にも生えているといいのになあ。

魔女のホウキ2010.5.14

 通勤時、最近できたばかりの坂を車で登ってゆくと、斜面にエニシダの花が咲き誇っている。黄色の花を「金の雀」と見立てて「金雀枝」。きれいな漢字だなあ。
調べてみると、法面緑化に使われるほど丈夫で、そしてきれいな花で園芸種もあるけど、毒がある。さらに西洋では、昔からエニシダの枝をたばねて ほうきにしていたらしく、だから魔女達が飛行に使う箒もエニシダ製らしい。ポッターもキキもエニシダの箒で飛ぶ訳だ。ここで疑問が湧く。なぜ魔女は他でも ない「箒」を使って空を飛ぶんだろう?
まずはエニシダに含まれる毒ありきだったのではなかろうか。魔女ではないが、アメリカ大陸の先住民は、エニシダの花を乾燥させたものをタバコ のように吸い、精神の覚醒を高めていたという。つまり、エニシダを使えば「飛ぶ」ことができるわけだ。加えてエニシダの枝ぶりそのものがまさに「ほうき 型」なので、それゆえ魔女の駆使する毒や薬のもたらす効果を象徴するアイテムとして身近な箒が連想されたのかな、そんな事を考えた。
そう考えてみるとキキが頭につけている大きなリボンもエニシダの花がモチーフなのかなとも思えてくる。まあ、
考え過ぎだけどね。
エニシダの坂を過ぎてカーブを曲がると,前方のはるか上空、青空に飛行機雲がまっすぐに伸びていた。魔女の飛んだ軌跡、ではないが気持ちのいい朝だった。

新緑の森をおよぐ 2010.5.13

 昨日、精進が滝にむかった。
滝を目指してゆっくりと歩いていると、ひんやりとして澄んだ空気のせいか、しぶきのせいか、絶えず聞こえる水の音のせいか。なんだか水の中にいるかのような錯覚にとらわれた。
陽に当たって輝く生まれたての若葉はうすくやわらかで、色もそれぞれがやさしいみどりをしている。谷を抜けてゆく風に、若葉が一斉に横を向く。 次の瞬間、互いが思い思いの方向を向き、またそろってなびく。そんな様子は、水の中で時折きらりきらりとウロコを光らせて身を翻して泳ぐ小魚たちの群れを 思い出させた。
そしてもうひとつの水中感。谷にはつねに風が吹き、水中のように絶えず、何かが舞っている。よくみればそれらは小さなみどりたちだ。若草色の 若葉や萌黄の花穂もあれば、長い冬から葉を守ってきたカバーたちはこれまたなんて美しい茜色、これらが足もとの苔の上、切り株の上にも無数に舞い降りてい く。
滝からの帰り道、道端に落ちていたカケスの羽根。JeyBlueと友達は教えてくれたが、この青のグラデーションも透明感ある水の色と似ている。今日にふさわしい色だ。

こんな透き通った五月の休日はまたたく間に過ぎて、すぐに濃く騒がしい、緑の季節がやってくる。また来れるといいね。帰り道、お天気雨の牧場でお団子を食べながら思った。

本家本元オドリコソウ 2010.5.9

 先日、ヒメオドリコソウについて書いたが、今日はオドリコソウについて。オドリコソウとの出逢いは、大学の時の冬の茅が岳登山の帰り、麓の畦に咲いていたのをスケッチしたのが始めだと思う。その時はピンクの花というくらいの印象しかなかった。
今日オドリコソウをひさしぶりによく見て、びっくり。まさに、和服姿の柳腰の美人たちが(ただし、笠をかぶってうつむいているのでみんな美人に 見える?)葉っぱのステージ上で踊っている!ヒメと比べても桃色が濃く、アクセントのアザレア色も繊細で美しい。これまで気づかなかったのは、ヒメオドリ コソウのイメージが強く、植物全体像しか見ていなかったから。全体像だとヒメより端正ではなく、本家はちょっとまとまらない感じだと思っていた。
いままで見ていたはずのものも、さらににじり寄ることでいままで気づかなかったものが見えてくることがある。自然の面白さは尽きない。

おやすみ若いつばめ 2010.5.8

 毎年、職場にはツバメが多数やってくる。職場の廊下がとってもお気に入りらしく、この時期ほおっておくとどんどん巣を作ってゆく。最近,まだ白い羽根が 羽根に混じる若いツバメが2羽、夜になるといつも同じところによりそって泊まっている。しかも廊下の、しかも地上1.5m。眼の高さで眠っている。昨日は 押さえがたい衝動に耐えられず、そっと手を伸ばす。さわれる。さわっても逃げないのは野生動物としてはちょっとどうよ。なんて警戒感がないんだろう。
帰宅後、ベッドの上のあちこちにちらばるうちの子供たち+うちの猫の寝姿を見てまたツバメたちを思い出す。全力でたべて、全力で飛び、あそ び、全力でねむり、育つこどもたち。あと1週間もすればすっかり大人になってしまって、あんなところでは寝なくなるのかな。子供時代はゆっくりと瞬く間に 過ぎてしまう。

わらうたんぽぽ。 2010.5.6

 初夏のような陽気にあっというまにユキヤナギは花びらを散らし、まだかな〜と待ちわびてたはずの庭のリンゴの花も散り始めてしまったGW最終日。タンポ ポも綿毛状態が急に目立ってきたことに気づく。ちょっとだけ時間があったので、道端の草花たちをファインダーでのぞいていたらあそびを一つ思いついた。
題して「わただるま」そして「探ぽぽくん」(←ここらへん適当ネーミング)。ちょっとカワイイ系狙いっぽいのが嫌だけど、綿毛を崩さないよう に作るのは意外に緊張する作業。単純に楽しい。でも、こんなのを草原や道端でだれかが偶然見つけたらうれしいだろうなと、アメリ系あそびを仕掛けてゆく気 持ちはなんだかもっと愉しい。
多感だった(はずの)中学生の頃から好きな花、たんぽぽ。くりかえす「ぽ」の字の語感がなんともいい。そして、この花の印象は谷山浩子さんの 名曲「たんぽぽ」と迷曲「たんぽぽ食べて」で自分の中ではほとんど形作られている。旅立ちへの決意とあやしいほどの植物的しぶとさへのあこがれ。今でもそ のイメージは変わらないなあ、とつらつら再確認。

自己レス:先日のタンポポぼんどあそびが再現できない。なぜだろう?粘りが今ひとつ弱い。

くるくるばななばな 2010.5.6

GW中旬。レンギョウの花がきれいだった。
こどもに紹介すると、「バナナみたい〜」、別の日にも「バナナの皮だ〜」
こどもに取ってはバナナを強烈に連想させるらしい。
こちらの方が具体的で印象的と思いつつ,本名に興味が湧く。

レンギョウはてっきり連なるに桔梗の梗で連梗と思っていたのだけど、
本当は連翹と書くのが正しいらしい。
ギョウってなによと調べてみたら、(つまさきをを立てるように)上にむける。
なるほど、剪定してもすくすく枝をのばし、
春には鮮やかな黄色の花を咲かせるこの植物のイメージにぴったりの名前だ なあ。
ちなみに黄寿丹とも呼ばれるらしい。

バナナの皮のように4つにさけた花をそっと摘んで、
手から離すと竹とんぼのようにクルルルル…と回って落ちることに気がついた。
おっ,面白い と思って何個もやってみたところ、回ったり回らなかったり。
きれいな形に開いた花びら限定のあそびと判明した。
小さな小さなあそびの発見だけど、
こういう 発見こそたのしいなと思う。

おどれヒメオドリコソウ 2010.5.2

 土手や空き地にタンポポたちとともに生えていたり、1種単独で固まって生えていたりするが、もこもこと遠目から見た立体感がおもしろい草。
踊子草と聞くと=バレリーナイメージが多いけど、日本の踊り子なら、それは本当は盆踊り風イメージなのでは?と描かれた絵本があり、それを読ん でからは、この花を見つけるたびに花笠音頭大会に見えてきてしまうのがとても印象的。でも実はヨーロッパ原産の帰化植物だったりするので、本当はどっちの イメージなんだろう?
今日摘んでみて初めて茎が四角いことに気がついた。知ってるようで知らないことってたくさんあるな.さらに赤紫色の小さな花をなめると、甘い蜜の小さな味がする。ちょっぴりミツバチになった気分を味わった。

くろもじの雲 2010.4.30

 ここ小淵沢に来て、もっとも親しみを持つことになったのはクロモジの木かもしれない。折ってにおいを嗅いだり、お茶にしたり。爽やかな香りは飽きがこない。でも、どこにでもあるかと思いきや、以外に探そうとするとなかなか見つからなかったりする。そこが不思議なところ。
今、森の中ではクロモジの花が満開になっている。とはいえクロモジの花は地味だ。むしろ、その上についた開き始めの若葉の方が目立つと言える。 全体で「みどりのはな」といった風情。まだ明るい春の林の中で、柔らかい日差しに輝きながら、漂うように無数の「はな」が浮かぶ。遠目から見れば黄緑の雲 のようでもある。その色の中にあの香りがとじ込められているのを思えば、ほのかに漂う香りを直接眼で眺めているような不思議な気分にもなってくる。

みどりつみ 2010.4.29

 先日は、ひさーしぶりの散歩。松の木の前で解説していたとき、参加の年配のご婦人が「あら、これが松のみどりかしら」と言った。剪定の本にそんな単語が あったことを覚えていたが、気になって後で調べた。「松のみどり摘み」とは春先に伸びてくる新しい枝を半分程度摘み取って枝振りを調整していく「新芽摘 み」のこと。ついでに頻繁に参加者に感嘆される「いつも見ている松より、ここで見る松に松ぼっくりが多いわね〜」という理由も今までは「森から離れて生え ているから」と思っていたが、実はこのみどり摘みをしていないと松ぼっくりがよく付くということらしい。皆さんが比較していたのはよく管理された庭木の松 だということが分かったのが今日の収穫。
みどり摘み、春らしくていい言葉だなあ。それにしても、松だけ特別な呼ばれ方をするのはやはりそれだけ松が日本人にとって特別である証拠。
松の語源は、門松なども最たるものだけど、神の宿るのを待つ場所から来ているらしいけど、山の稜線や海岸など荒れた土地でも緑を絶やさず、風に耐え枝をくねらせ伸びてゆきながら、松自身は何を待っているんだろう。

妖怪ミズキ?血を流す 2010.4.25

ミズキの木は水を吸い上げる力が強く、春先に切り口から水が出る。
でもそこに、鮮やかなオレンジ色のへんてこなものが着くのを知ったのは20代の頃。最初は病気では?と疑った。個人的呼称は『へげへげ』。かなり 目立つものなので昔からこの現象は「ミズキが血を流している」とも例えられてきたらしい。なるほど、「大木を切ると切り口から血が流れた」というような伝 説の類型は、このような現象の観察と想像をきっかけにできたものなのかもしれないなあ。

で、地方によって「あかっこ」「かす」などと呼ばれて、昔、味噌汁に入れて食べたそうな。昔の人、勇気あるなあ。
さらに調べればこのオレンジの正体はファフィア酵母。樹液で酵母菌が繁殖したものらしい。カルテノイドという色素を含み、これは鶏卵の黄色や金魚 を色鮮やかにするために使われたり、強い抗酸化作用を健康食品や化粧品にも利用しているらしい。昔の人、実は理にかなってるねえ。

水木といえば水木しげる、ということで彼の書いた「妖怪の味わいかた」という文章があった。
『金がなくても楽しめるのが妖怪。
どうしても妖怪好きは、貧乏人に多い。
金もうけで忙しい人には見えないものらしいですナ。』
なるほど、妖怪とはまさに自然の驚きの事なり、と納得。

昨日、水がぽたぽたしたたるオレンジ部分に触れてちょっとなめてみた。「甘いのかも」とちょっと期待したが,ほとんど無味無臭で残念。本日はその水がなんと10センチくらいの立派なつららになっていた。まわりの地面は5センチくらいの霜柱。春なのに,ああ春なのに。
こんなできごとも妖怪の仕業かしら。

山春黄色 2010.4.25

毎日の通勤で、300mぐらいの標高差を移動していると,季節を感じることができる。

家の近くからしばらくはヤマブキの季節に。
山吹はその名の通り、春が吹き出してきたような黄色が鮮やか。しなやかな枝が風にゆれる様子から「山振」転じて「山吹」となったらしい。イギリスでは、Japanese rose、Yellow roseと呼ばれてる。
印象的な黄色が特徴だけどヤマブキの花の色はよく見れば黄色。色名の山吹色はずっと橙味が強い。昔の人も観察よりも印象重視だろうか。
「山吹色の御菓子」といえば時代劇の悪役必須アイテムだが、
ヤマから精製して吹き出した金を使ったまばゆい小判をしてヤマブキと呼び習わしたのもこの時期の花を見れば納得。
山吹は春にちりばめた金の粒。

雨もようさまざま 2010.4.23

昨日は雨のふる中、しばし庭に出た。

桜が終わって桃も終わりかけ、家の裏の桃の花が樋につまって樋が外れてた。
風流も度が過ぎればしゃくにさわるばかり。
しばし樋を治したあと、雨にぬれた植物たちに眼がゆく。
イネ科の葉の上には大小の水玉が整列してる。
のびはじめたアマドコロは茎の分岐にだけきれいな球をためている。
丸い水玉をのせるアカツメクサ
丸くない水玉ばかりのノゲシ
じっとり全身ぬれているものもある
水が嫌いだからとはじくのか、水を導くためにはじくのか。
植物たちと雨粒との微妙な関係。一筋縄では行かなそう。

ただ共通しているのはみんなうれしそうだということ。
今はまだ広大な、ぬれて黒々とした土を、いつか隠してしまおうと意志を持ち
いつもよりいっそう鮮やかにその緑を広げている。


本日さらに寒くなった。今日の夜の帰り道は,ウィンドガラスが薄く凍ったほど。やれやれ。

家族で春見 2010.4.21

 昨日は家族でお花見。カブラのサクラを見に行った。外でのお弁当は文句無くきもちがいい。

「たんぽぽボンド」で娘の髪の毛にタンポポペタリ。
息子は枯れ枝からレーザー光線を乱射しながら一面のぺんぺん草に消えてしまった。
こどもたちは自分の背丈より長い笹の葉を振り回したり、道を横切る小さな流れにジャブジャブ入っていったり、いろんな形で春を楽しんでいる。自分なりに楽しんでいるというのが大事だなあ。
散歩もそろそろ終盤、
アリたちがせわしなく動いているのが気になるのか
木漏れ日のざわめく影がおもしろいのか
座り込んで、娘がじ〜っと地面を見ている。
そんな我が子を見ているのは、静かにうれしい。
そんな春の中、花びらは休むこと無く黒い地面に次々に落ちてくる。

こちらも大の字になれば、青空には描きかけのまっすぐな白線。
「春だなあ」とカラダがようやく実感した気がした午後。

がんばろう。

はじめまして

自然系noomの 日々の小さな発見のキロク。